240409tue

19℃ 雨

定かではないが10時ごろ起床?肌寒い一日だった。

一昨日スーパーで入手した乾物の件だが、昨日の時点で封を切り水で戻し、切り干し大根とひじきと舞茸の甘辛煮を作ってみた。これが美味しかったため、今日はサラダチキンも加えて鍋いっぱいに作り、ご飯に乗せて食べた。気に入ると毎日でも同じものを食べる類の人間なので食生活にはお金がかからない。

今日は制作はなし!諸々の片付けを行い、細々と掃除する。
ブログを3日分更新する。3日分ともなるとこの日このとき自分はこう感じてこう考えたという細部が朧げになっており、書いた瞬間の思考を書き連ねることになる。行動としてはその日のものだが、思考は書いている時点(体験の1〜2日後)のものだ。思い出しながらその日の記憶を作っている感覚。ブログで日記をつけ始めてから独りよがりな俺日記を人様に送りつけることがなくなって人間関係的にプラスになっている。このブログは独りよがりでとてもつたないものだが、それで仕方ないのだと思う。鏡で自分の顔と眼差しを確認するためのもの。それが思考の深みにあるか浅瀬にあるかはよくわからないが、とにかくどこかに吐き出す必要があることを感じている。数年前新卒で社会人になってからというもの、院にいた頃のようにレポートや論文を書くことがなくなった。これが辛かった。2000字〜4000字〜数万字を日常的に書く機会がない。それは自分にとっては絵を描く機会がないのと同様……否比較する類のものではなくどちらがキツいかもわからないが、とにかく自分の回路においては実技と理論は両輪として回っている。日常的に文章を書いて人目にさらしていないと気が済まないから就職後に通信制で大学に入り直した。文学部であるが、レポートは書けば順調に受理されるし審査も通る。

ところで就職するまでは実家から援助を受けたが、就職してからあとの学費や家賃は自分で稼いで捻出している。こんなことは奨学金の返済に追われている若者からすれば取るに足らないだろう。自分が自立するまで長年支えてくれた人々に頭を垂れ、さも「自分一人で立派に自立しております」などとふんぞり返らないことである。まあでも正直内心では「よくここまで恢復することができたもんだよ」と自分で自分にふんぞり返っちゃうんだよなあ。人一人が自立して生活すること以上に尊いことなんてあるのかしら。災害や病気や貧困や諸々により人間同士助け合うしか手立てがない状況に、長い人生のなかで何度も陥る。けれど「自立が尊い」と思って、その「尊い自立」を目指して様々なことをコントロールしていくのが良いと思うんだよ。自立すれば自分で自分の感性を守れるし。自分の感性を守ったまま関われる他者を選べるし。今ふと思ったんだけど自分が尊んでいるのは「自立を前提にした孤独」かもしれないな。ある程度孤独を保てないと制作できないわけじゃんか。それだから感受性や衛生観念や思想が大きく異なる人々と「助け合いの生活」なんか全然したくないんだよな。実家を出てから人生がグッと楽になった……。これはもう今後の日記でも何度でもしつこく書くに違いないのだけれど、自分の幼少期がハードモードすぎて幸せな記憶が全くない。途上国を何カ国も連れ回した挙句帰国してからも家庭で里子を引き取るような「特殊な両親」を持った結果がこれだよ。家族が幸せかはよう知らんけど、自分自身は今一人で、とても幸せに暮らしている。過去の苦しい記憶がなくなりさえすれば、自分が生まれてきたことを、自分は肯定できるのだろうか?しかしそうした場合は(地球全体から俯瞰したとき)自分がいかに恵まれているかも理解できなくなるが?つまりちょっと幸せなアホになるけどいいのか?本当に?

自分は言葉や文章を専門とする人間ではないので、込み入っていて複雑なことや専門的なこと(例えば美術の専門的なことを言語化する場面においてさえ、実技の人間としての言葉になってしまうので、美術史研究や表象文化論の言葉では書けないと思う、基本のお作法を習得していない)は言い表せられないし、特別ユーモアのセンスもないけど、それが自分なのだからこう書くほかない。

 

午後から在宅勤務。仕事はあるのだがモチベーションは低く、うだうだと作業した。

夕方に、福神漬けを添えてレトルトカレーを食べる。

22時ごろ観念して布団に潜り込む。

今週末にTが帰国したのち1ヶ月の間は、きっとブログの更新をサボりがちになるだろうなあ。