240425thur

23℃ 曇

7時半起床。

マウスと化している数時間のあいだ、恋人と寝たいなと思ってえんえん具体的な回想に耽った。これでこの回想が、自分の脳みそにオキシトシンを流すためだけに恣意的に作られた偽りの過去(実際には存在しない)だったとしたら自分はみじめだなと思った。でもそれでも仕方がないような気がした。もうここ数年の出来事の全ては、自分の脳みそがそれまでの苦痛に耐えかねて生み出した脳内妄想であっても仕方がないのだ。現実の全てに現実味がない。とても陳腐な発想なのだろうが、本当の自分は閉鎖病棟の中で地上のあらゆる幸福を夢見ているのだという方がリアリティがある。いつかこの夢から醒めるのでなければ辻褄が合わない。「生存を肯定しろ」という外圧を感じる。いやだ。肯定したくない。いろいろなものをきっちり憎んだまま死んでいきたい。そうしてサラサラと風に揺れる柳の木の幽霊になりたい。

 

自分は性欲と愛情をかなり切り離す性質だが、自分がそういう人間だったということをここ数年は意識することがなかった。(中略)

実のところ、日々、周りの人間の爪の長さ/短さを見て何かしらは察しているのだが、自分はもう分別のあるいい大人なので、そういうのは気づいていないことになっている(学生時代からのクセだ。バーカウンターに入ると、グラスを手にする客の爪の長さがまず目につくのである。)。

 

マウスは帰りにRに立ち寄りギャラリーを5軒ほど冷やかした。

家に着くとどっと疲れてしまい、近所の中華で天津飯を食らいながら紹興酒を煽った。

240424wed

15℃ 雨

8時ごろ起床。やっぱり今日は豊田には出かけたくないなーと後引く思いも抱えながら外の雨音を聞く。雨であるせいか少し肌寒い。米と山葵納豆と味噌汁で朝食を摂る。食後に昨日ココノカ堂で買ったロールケーキ2切を食べる。

少し止んだ頃を見計らって郵便局に出かけ、文芸PR誌ちくまの払い込み(年12回発行で1100円のおねだん)を済ませる。毎月の楽しみが増えることですなあ。ありがたきしあわせ(アフロ田中)。中身はもちろん楽しみではあるのだがまず表紙の市川春子が目当てで申し込んだ。市川春子は昔描いていた短編が好きで最近の長編は読んでいない。多分読まない。なのでアニメがどうのとかはわからないのだがネットではかなりの評判みたいだ。こうして話題の時に文芸誌の表紙に起用するというのはビジネスの手腕を感じる。自分もまんまと表紙に釣られた口である。

ところで白水社の季刊誌である「白水社の本棚」の方はこれ本当に無料でよいのだろうかと心配である。こういう出版社が出してるB5サイズの小さい機関紙、最近知ったばかりでいわゆるマイブームなのだ。普段から大学の課題だの趣味だので読む本が既にたくさんあるため分厚めの文芸誌だと読み切れる自信がないのだが、こういう小さな雑誌なら読める。市場に流通しておらず後から遡って入手することが難しいというのもワクワクするポイントだと思う。他にもないかちょちょいと探してみよう。

そういえば横浜に赴いた際に、(zineを作ってみたいと言いつつ全く着手していないなというのは棚上げにして)月刊ひとり新聞を発行してみることはとても楽しそうなのではないかなという話をTに聞いてもらった。地図とかグラフとかイラストとか全部作れるわけだからあとは自分の中に蓄積されているネタを選ぶだけだ。

こういうアイディアばかりで実際のところ何も実行に移さなかった物事といえばzineの他に酒蔵巡りサイト運用とフリー素材作成告知SNS運用などが挙げられる。実行に移した物事といえばこの日記ブログやフリー素材(今200枚くらい)作成やlinktoberや大学再入学&単位稼ぎなどが挙げられる。どっちかというと実行に移した物事の方がまあ多いので自分は自分を称えて然るべきである。ところで毎日自邸の庭を見るたびに庭の手入れサボりがち問題を意識する。

大学のドイツ語課題に再着手した。本当はラテン語なんぞに寄り道している場合ではなく、卒業がかかっているドイツ語に注力しなきゃならんのだが、まあ焦ることじゃないしねと後回しにしていたのだ。なぜドイツ語であるか。バウハウスのドイツ、ミヒャエル・エンデのドイツ、トーマス・マンのドイツだからである。

 

 新基準としての Mx

こうした中,昨年,大辞典の Oxford English Dictionaryが,MrやMsに代わる敬称として, あらたに,Mx(mixまたはmuxと同音)を辞書に取り入れた。Mxは,性を特定しない人,されたくない人に対する ,gender-neutralな敬称とされる。すでに,英国では,役場や企業が採用を 進めており,Mxの使用は急速に増えているという。今年は,米語系大辞典の Merriam-Webster Unabridged Dictionary(以下,MWUD )も,Mxを収録している。Mxの初出は1977年とされるが,性の多様性への関心が高まった近年,注目されるようになった。生物的な性別のみに基づいて,人間をMsとMrに二分する英語のありように,疑問が呈されたのである。40年前にフェミニストが取りこぼした視点であったと言える。

(石川有香「ジェンダーから見る辞書記述」)

つまり映画ふうに言うなら"Mx. Nobody"ってワケなのだ。まあ実際のところ人は他人のジェンダー自認なんぞに微塵も興味はないだろう。というか現実的に考えて、他人の精神性や他人の思想や他人の価値観なんかに興味がある人間のほうが珍しいのだ。自分ですら、そういうのが一種のvulnerabilityとして他者から表明される限りにおいては「新時代様式ですね笑」「でも意思疎通の型がわからない」と困惑し、「そちらをどう扱えばいいのか詳細に説明してくれ」と思う。大きな属性を一つ退けることによってかえってむしろ「自分本位の未熟さ」が炙り出される。「むきだしの・ありのままの自分」を承認されたいとか思っているふうになってしまう(実際にはそうではないにしても)。自認を伝えることが「自分を特別扱いしてくれ」と同義になってしまう限りにおいては、自分は自分についての表明をしない。それでも耐えらえる程度の不快だ。仕方がない。諦めろと思う。自分も人のことを見かけで判断するのだから見かけで判断されるのは仕方がない。辞書ばかりではなく、もっと社会に浸透することがあったらそれはその時に考える。とにかく自分は周りの認識に自分を馴染ませる演技にとどめたい。

 

明日朝早く起きなければならないにも関わらず、昼寝のせいか夜なかなか寝付けなかった。

日記の冠は毎度、後で読み返した時につけようと思う。ネット風ではなく、紙面風の見出しにしたい。

240423tue 机上に費やされた一日、豊田遠征を躊躇

19℃ 曇

8時ごろ起床しゴミを出す。思うんだけど書き出しが毎日ゴミ出しから始まるこの日記、ザ・生活臭、という印象でかっこ悪くないか?ていうかそういう映画あったよね何だっけ……(映画予約サイトの履歴を確認する)そうそうMr.ノーバディ!毎週ゴミ出しに遅れる冴えない中年男性は世を忍ぶ仮の姿!本気を出すと実は怖い奴的な話。去年くらいに観た記憶でいたが確認したら3年前だった。あの映画頭からっぽで観れて面白かったなあ。……まあ赤裸々ではないにせよ、ただ人間の毎日を書き連ねるブログにかっこいいもクソもあるかいという話でもあるのだが。気取ってかっこつけた日記ってむしろ気持ち悪いからこれでええのかもしれん。ただまあ例えば書く対象の抽象度や俯瞰具合を上げてもっとなんていうかこう意識高い系の学生みたいな、社会問題の掘り下げとか詩の引用とか美術制作における考え事とか書くべきなのではないのか!?最近は「こういうのが嫌い」ということばかり書き連ねていて、読んでいて結構つらくないか?自分は自分の1番の読者なので(ていうか他に読者とかいないので、気兼ねなく)書いたら2回でも3回でも読み直すんである。

ちょっと実験的に毎日の日記に題を冠してみる。

 

昨日ジャンクフードをバリバリ食べた影響で今日はさほど食欲がなく、だらだらと過ごす。ブログを3日分更新。

今晩からの夜行か明日早朝の昼行か明日の夜行で豊田に行くかどうするかなどと2時間ほども迷ってうだうだうだうだしていた。2年前までなら当然のように勢いに任せて予約し決行しただろうが、今回はなんとなく気が乗らずだらけた時間を過ごした。13時ごろに治○の電話が入ったので二つ返事で引き受ける。内容はここには書かないが、自分は自分の身体を差し出し、実験マウスになって小銭をもらうのが好きだ。普段手に取る商品の背景に想像が及ぶし、それに開発におけるこうした検証の過程(データの取り方)は、美術系のこちらにとって新鮮な感じがあるのである。で、豊田には結局行かないことになった。ネットで余計なものを見聞きしてしまって興が削がれた。代わりに秋ごろに行こうかなどと思った。

自分は国内では豊田市美術館横浜美術館東京国立近代美術館には絶大な信頼を置いている。学芸員資格の実習で赴いたところ(実家が近いとかいうことは全くなく、交通費宿泊費までバイトして賄った)、教育施設で長期インターンしたところ、コレクション課で長期インターンしたところということで、学生時代の経験により、かなり思い入れが強い。結局学芸員にはなれなかったが……。自分は精神衛生を最優先する必要があって、タフな労働環境や不安定な雇用には耐えられなかっただろう(門外漢にはピンとこない話かもしれないが、学芸員の労働環境をめぐる問題は結構深刻なのです)。だからそれは仕方がない。お世話になった方々には申し訳ないけど。

ああこういう話しているとだいたい「でかいハコばかりじゃなくちっちゃいギャラリーにも目を向けろこのうすらハゲ権威主義者が!」的な声が(自分の中の)他者から上がるんですけど、自分はそういう社会の上澄みが好きで、つまり教科書や新聞などといった評価が確定している物事の集合体が好きな人間であって、お金の計算があんまり得意じゃないし資本主義バリバリっぽいところに自分から近づいていこうとすることはできない。コマーシャルギャラリーや貸し画廊、見に行くは見に行くけれど友達の展示だから見に行くみたいな内輪ノリにはついていけない。あと作家はキュレーターなどの作家を支える側に超人的能力を求めすぎなんじゃないのとか思う。彼らは社会全体から見れば非常に優秀で、かつ色々なものを犠牲にして働いている人たちの集団なので、若手が発掘されていかないからといって苛々しないでほしい。なんか書いていて嫌になっちゃったな。

 

大学に進んでから、胸襟を開いて語らうような大学の友達はほとんどできないけれどうっすらとした横の交流はあって、たまたま流れで文化祭の展示のリーダーを仲間内で担当させてもらう機会があった。自分には全くカリスマ性がないし意識散漫なサガなので、性格・気質的に芸術家タイプや職人気質ではないかな。でも共感性は高く視野が広く地道で勇敢だから(←自己評価が高すぎる)作家を支える側にはなれるんじゃないか、そう思った。地味なマルチタスクが苦じゃないしコミュニケーションも(叩き上げによって)克服しつつあるし、何より今はキュレーターが大きな力を持っている時代だ。そういうのも面白いんじゃないか。その流れで大学院修了まで首を突っ込める限りのことはした。


今の職場は就職当初、経歴的に自分は「生粋の芸術家タイプ」と見做されることが多くやりづらかった。しかし最近はというとやる気がゼロであり、とれる有休をとりまくって職場にあんまりいない人になっているため自分の中でも「たかが銭稼ぎの場で人からどのように見なされるか」がどうでもよくなりつつある。というかどうでもよくなるように仕向けている。まあ定年まで「あんまりいない人」のままやっていけるかというと微妙なんだけど、そういう眼差しが窮屈で嫌になったら会社を辞めて貯金とバイトで食いつないでいけばいいやと思う。

 

こういう風に自分の経歴を一つのモノガタリ化していくと「じゃあお前もう制作はええんか?」という話になってくるのだが、なんか作っていないと調子が悪い気がするのでアトリエは引き続き維持するし、なんか書いていないと気持ち悪いので自分を確認するためにこうした文章を垂れ流していく。

 

こんなん日記とは呼べないね。いったいいつになったらまともな日記が書けるようになるのだろうか。

240422mon 健康診断つつがなく

18℃ 曇

8時ごろ起床。ゴミ出せず。なんだかんだ準備して昼ごろ出発。

Kにて健康診断。施設がとてもきれいで感動した!次から社内で受けず、こちらに来る方がいいかもしれん!終了後アンケートに答えたのでカロリーメイトをもらえた!チョコ味。嬉しい!

K駅エリア。電車で降りるのは今回が初めてだが、駅ビルがかなり大きくとても栄えている印象。消費者目線で言えば北千住の駅前と同じくらいには充実しているのではないか?

イカキットの3coins+にて買い物のち、マックでチーズバーガーのハッピーセットを、席に着きながらにしてアプリからイートインでキャッシュレス注文。

勤務中の自分のスタイルはほぼ固定しつつある。スタンドカラーのシャツにスラックス、ゴールドのフープピアスとリング(軽く、身につけていることを忘れられる量感のもの)。全体的にゆったりしたシルエットで身体の線が出ない。アクセサリーは頻繁に無くすので気軽に買い直せる安物。理想は5〜7000円くらい?安すぎるか?今はもっと安くて〜1000円程度で毎日付け替え、色々遊んでいる。とにかく頻繁に無くすから。無くさないなら10万くらいの予算で選びたいけどそれはまあ。

 

地下鉄で移動し、○ヶ関の○京○裁にて裁○傍○。 酒気帯び運転によるバイク衝突事故。実地描画練習。

夕方から深夜にかけて労働。科学面の統一部分を詰めて先輩に委ねる。今日もラテン語・ITパスポート・チョコザップはなし。報道すらまとめず。雑談の語調が強すぎたと思って凹む。粗野であってももっと柔和なユーモアを込めて!ひょうきんものの自覚が足りん!

 

26時半すぎにタクシーにて帰宅。iphoneを開くとYから「こんな目に遭っている」とのLINE報告。そうか……。さすがに深夜も深夜なので返信せず。

自分には今、精神的にも経済的にも時間的にも人を助けるだけの余力がある。余力があると思う。今度いくらか「身近な人の心のケア」系の本を読んでおこう。仕事もそうだけど「たまたまそこに居合わせその(荷が重い)仕事を振られたからには、自信がないだとか失敗したら心配だとかいうことで断る余地はこちらにはない」のであって、とにかく「失敗した場合の最悪パターン」を想定しながら対策を積み重ねていくしかない。

「他者から助けを乞われたら全力で助けに行く善良な人間です」と言える無邪気さを10歳の時に失ったと思う。むしろ何かあった時に自分は助けられるだけの力がない。浅慮のせいで、あるいは教育力のなさ、経済力のなさ、調整力のなさ、ケアする力のなさのせいで見殺しにしてしまう。他者の病を治すこともできない。自分だけが生き残る。そう思う。自分は、自分の無力によって身近な他者を損なってしまった経験を持たない奴の吐く、綺麗なだけの言葉が大嫌いだ。自分は嫌いなものが多すぎる。

 

今年の3月22日からブログを毎日投稿し始めて今日で1ヶ月である。毎日投稿は無理だけれど2〜5日に一度複数日ぶん書くことは習慣化された。

240421sun 共依存に対する危機管理規画

23℃ 曇のち雨

うーん。来月からYがこちらに避難しに来ることが決まった。この日から毎日生命の危機を知らせる被害報告をくれるようになり、自分の中の何かを嬉しいとか楽しいと思う気持ちを差し置いてYの危機に向き合うことが要請されている。

自分が警察なりカウンセラーなりストーカー被害の相談窓口スタッフだったとして仕事として打ち込むならまだしも、仕事は仕事としてあって(来月にかけて法○画のでかいやつと大学のメディアスクーリングとレポート〆切とその他諸々が控えている!Tもまた出国する)それとは別に自分の時間を(アンコントローラブルな状況で)差し出すというのはマジできついです。大学の単位はいくつか落としても仕方ないことにしよう。友達に先立たれるより数億倍マシ。

毎日毎日「こんな酷い目に遭った」という報告を見るのつらい。というのも、「ホットサンド美味い」とか「風が気持ちいい」とか「明日はどう過ごそうかな」という日々の自分のちっちゃい喜びがその度に台無しになるからで、そういうふわふわした精神生活のモードをいったんタフに切り替えなきゃいけないからです。これは戸惑いを示す弱音であって悪口ではない。自分は自分でプロの相談スタッフに繋がっておこうと思う。というか多分今回くらいのことがあったらYが精神を患っていても仕方ない状況だし、自分はなんとしてもそれに飲み込まれるわけにはいかない。

Yが数ヶ月休んで回復してきたら「死ぬくらいなら家族に頼ろう」「勉強して一人でも食っていける資格を取ろう」「頼れる同性の友達を他に1人作ろう」とやんわりと言ってもよいのだろうか。後2つはともかく最初のは微妙だな。自分くらいはせめて人の家族関係に口出ししないのが吉。

 

人が弱っている時に身近にいて、その人に手を差し伸べた人間をこそ憎むようになる現象も怖いなあと思っていて、でも仕方がない、、、プライベートで解決しようとするのを止め、プロ(福祉や公共機関含む)の手助けを借りて被害を解決できるようになろう。

 

社会はクソ!

T邸を出て、昼過ぎから8時間労働ののちチョコザップ。

今日は仕事があったのでラテン語もITパスポートも取り組んでいない。

ほくほくの焼き芋を食べながら仕事した!生命力の権化だ。

240420sat YOKOHAMA観光

24℃ 曇

風が程よく、散歩にうってつけの一日だった。

横浜に出かけた。お目当ては4年ぶりの横浜トリエンナーレと中華街だ。

ゆとりのある予定を組んで行ったものの体験の密度は高かった。リニューアルオープンしたての横浜美術館と、馬車道駅そばのBankART KAIKO、 旧第一銀行横浜支店を回った。

 

見ていて悔しかった。横浜美術館のキュレーションがあまりに素晴らしすぎたのだ。一昨日の、上○の西○美術館で現代アートに対して抱いたネガティブなイメージがどこかへすっ飛んでしまった。何がどう素晴らしかったかは少しずつ書き足す。

  1. 導入のホールにおける高低差のある作品配置→一覧性が高い
  2. 2階最初と最後の部屋の天井付近の銀文字配置(和文・英文)→鏡?
  3. 最初の部屋、前半と後半とで対称に作品配置→鏡?
  4. 仮設の壁面に歪んだ鏡シートを使用→自画像、自意識繋がり
  5. 青い仮設背景使用→「青い肌」繋がり
  6.  

 

 

↓以下は横トリとは関係がない思念メモ

キュレーションで一番難しいのが現代アートのグループ展であることは間違いないだろう。立体、平面、映像やパフォーマンスが混在し、使われる素材も多岐に渡る。天井がある程度以上高くないとそもそも見栄えがしないものも多いが、キュレーションが決まった時点で既に天井の高さは調整できない。

 

日本の若者文化に支配的な「カワイイ」価値観を排除できるのも現代アート展ならではかもなあと思う。日本画や工芸だとサービス精神のこもった「カワイイ」が入り込んで来ることもあるが、現代アートであれば「カワイイ」ものが入り込んで来る際にはキッチュであったり過剰であったりと「カワイイ」価値観に対して懐疑的である。相対化されている。そういうところが気楽だ。

ところで自分は崇高で恐ろしいものに対して無力感を抱いているものが好きだ。カワイイものを見ているとぶん殴りたくなる。できればその価値観に無自覚なものと仲良くするフリを強いないで欲しい。

 

うーんまた日頃のコミュニケーションの辛さが思い起こされてしんどくなってきた。

自分は豪放磊落で面白い人が好きだ。気持ちが大きく快活でいようとすると職場がしんどい。気が小さくて心配性でいたほうが環境に対して適応的だよなあなどと思う。でも自分は豪放磊落で面白い人が好きだ。大事なことなので2回言いました。

自信過剰なままで暮らしていたい。なんなんだ。

 

 

↓ここからまた現実のこと

横浜中華街で中華の食べ放題行って満腹になった後にTが「ア!食べ放題じゃないもう一つの候補のお店の方が美味しかったかもねえ」とか言ってて台無しだった。まあ自宅から徒歩5分の中華のが美味いのは確実。

 

240419fri 生魚と樹脂の香りで〆

23℃ 晴

体調が優れないなか一昨日昨日と仕事、及び私事をこなしたため今日は軽くダウン。

明日また出ずっぱりになることを考慮して体力回復も兼ね、ブログを4日分更新しつつ16時ごろまで微睡ながら過ごす。

その後身支度してKへ。Tは仕事で遅くなるとのことで待ち合わせを1時間遅く20:30に変更。駅前のベックスコーヒーで新しいipadを軽くいじる。AdobeのペイントソフトFrescoをダウンロードした。Frescoといえば現代においては壁画じゃなくてペイントソフトであるらしい。

 

自分は、大都市圏に暮らし美術系の職に就いているにも関わらず実技の練習を怠りろくに美術館へ行かず美術史を学ばない人々のことをかなり強く、とても強く軽蔑しているところがある。こういう軽蔑、あるいは強い感情を仕事に持ち込むことは自分の身を滅ぼすことに繋がるに違いない。自分は他人に多くを求めすぎだという解釈で認知が歪んでいるんだと思う。誰も本当には美術のことを愛していない(あるいは世界のことを理解しよう、愛そうと何十年も努力し続けていない)だなんて考えないほうがいい。他人には他人の考え方と生き方があるのであって、こちらの考え方を押し付けるのは独りよがりで幼稚なことだ。自分はただ自分の為すべきことだけに集中するだけだ。誰とも対等な対話を望もうとしてはいけない。T以外には。例えばそう、こちらが身を入れて打ち込むことで他人と差をつけやすくて楽だとか思うほかない。自分が現状持つ技術の未熟さや論理的飛躍への自覚に留まっていればよい。

自分に心がなければもっと生きるのが楽だったろうに。こういう悪に転びやすい心が自分に生じてしまって、それでいて歳を重ねても威圧的な類の迫力のある人間にならないよう、細心の配慮を心がけたほうが、いつか面白い人と出会える可能性が上がる。そんな気がする。

自分はデザインだのイラストだのといった営みの持つ、皮相的かつ近視眼的なところで妥協されやすい点がかなり嫌いだ。とはいえ、美術の営み全体を矮小化して取るに足らないものであるかの如く言い切ってしまうアホのことは嫌うまでもなくただのアホ、完全にアホ、こちらの視界から消えてくれと思っている。


スーパーでしらすと鯖を入手して合流。家に着いたので夕飯を準備する。Tは電話越しにインドのスタッフたちに向けて仕事の指示出しを行っていた。顔を見ず電話でやりとりするのはハードル高いよなあ。
焼き鯖としらす丼で夕餉。酒は習慣飲酒ではなく機会飲酒が望ましいということで今日は酒はなし。

 

ここ1年くらい、Tは隙あらばあたらしい文房具を発明しようとしていて、でもなかなかうまくいかなくてうんうん唸っていた。よく試作品を触らせてくれた。今日も寝る間際まで3Dプリンターを弄っていた。ベッドでごろごろしていると、樹脂が持つ化学的な匂いがした。

240418thur うるさ型ハイパーガッカリ展

21℃ 曇

8時に起床しゴミを出し、お弁当にサンドイッチを作って9時ごろ家を発つ。

11時手前から○野の○洋美術館にて現代アートの展示を観る。結局そこかよ、学生の文化祭展示を見たときの感想と一緒じゃんという話なのだが、とにかく文字量が多すぎてうるさい。

自分は活字を好む性質だが、美術館のあの空間にあの文字量を置くことがどういう意味を持つかそのあたりのバランスに配慮されておらず、鑑賞体験全体をキュレーションする操作が弱い点は気にかかる。順番に回っていくと眼と精神のチューニングが追いつかない。ちょっと古い印象を受けたのだけれど、こういうのが――ネットに開陳された現場の顛末を逐一追って「面白がる」ことまで含めてこういうのが同時代のものであるなら、自分は見るのも作るのも完全にもういいやと思った。圧倒的につまらない。面倒を見てあげるのがだるすぎる。こういうのより面白い本が他にもいくらでもある。そう感じた。しかし最後の部屋、辰野登恵子に始まり坂本夏子に終わる最後の部屋はかなり魅力的で、あの部屋ばかりが最も雄弁だと感じ、何周も見て回った。

 

上◯公園で八重桜を見る。

20240418上野の八重桜

あんみつみはしでみつ豆を食べ、御徒町まで歩き、吉池とハラルフードショップを覗く。ソーンパプディとサモサを入手。

電車で移動し出勤。8時間労働ののちチョコザップでワークアウト。

 

普段Tと2人でいる時の意思決定はこちらに委ねさせてもらっているものの、自分はTを(その盲導犬のようなおっとりとした柔和さ、繊細さ、賢さによって)崇拝しているところがある。人柄が良すぎて、容姿までもがうつくしく見えてくる。この人のこころのうつくしさは神から愛される類のピュアネスだ。きっと神は自分の膝下にTのたましいを置いておきたがるだろうから、地上に長く留めておかないのではないか。長生きしないのではないかとはらはらする。親しくなってから2年経つがそう思う。

自分に欠けているものの全てがあるようにも思うし、自分の半身であるようにも思うし、それでいて予め半分が失われているようにも思う。

それで自分は、何かをひとびとに向けて表現することへの意欲はすっかり失われてしまって、「表現とは心のパンツを脱ぐこと」だとするなら自分はそういうのはもう全く興味がない。

ただ視覚とは何かかんがえること、精神のウチとソトにある宇宙のこと、線と色とで遊ぶことには興味が深く、そうしたことに、残りの時間かけて打ち込んでいきたい。

 

帰宅は24時半だったか。家に着いてから、深夜にも関わらずいなばのカレー缶を食べてしまった。

240417wed みずもしたたるいい○○○

17℃ 曇

調子が悪い日なので出社前の美術鑑賞を諦め、10時ごろ家を発つ。途中駅でユニクロで肌着などを買う。

会社に20分早く到着。健康診断受付に赴き、今日は検査を受けられない旨説明するがここで一悶着。決まった代替日当日に(仕事の都合で)出社できない場合、どうやら調子が悪くとも検査は今日出さないといけないらしいのだ。そんな馬鹿な話があるか。絶対に要精密検査の記録が残るじゃないかドアホ。こちらは不健康の不名誉を回避するためにこの1ヶ月涙ぐましい努力を重ねてきたのだと内心激怒。いちサラリーマンにとって、年2回の強制健康診断は最大の鬼門なのである。「いやなんと言われても今日は検査に出しません」と拒絶するこちらのワガママに、受付の方は困った顔で法律だから云々と説明。制裁を受けても全く構わないためテコでも動かずボケッとする。別室に回されるワタクシ。相談の結果、こちらの提案により会社が提携している外部の医療機関で別日に検査を受けることとなった。いやこんな簡単な公式の代案がなんですぐ出てこないのか。社内掲示板にもデカデカと書いてあるじゃないか。こちらが提案するまでえんえんアホの子扱いを受けて非常に傷つきましたあ。

説明の紙一枚もらって食堂に移動し、なんか今日は調子が悪いので情緒が不安定なんだよなあと5分ほどぼうぼう泣く。こういう感情。感情を持て余していても会社員はできるのだなあと思った。自分は検査だの診断だの試験だのといった記録に残るデータをかなりヒステリックに気にするタイプなのだ。いちサラリーマンの健康ヒステリー。

あー。そもそも服薬して辛抱強く出社などをせず、1日休んで家で寝てりゃあよかったな。健康診断の予約の電話を入れて一件落着。

 

そこから8時間の勤務。それなりに仕事が多く内職どころか今日までの報道を追うことも叶わず。作ったものもイマイチだったため完成を明日に回す。

職場の皆スルースキルが高く、上司の認知言動が自己陶酔と思い込みで歪みまくっててキモすぎても本当に誰も気に留めていない。自分だけが気持ち悪くて情緒が死んでいる。本人から何か害を加えられているわけではないのに視界に入ってくるだけで心底キツい。早く定年してどっかへ消えてほしい。本当に勘弁してほしい。

今日はチョコザップも休んで早々に帰宅した。

240416tue 楽園での過ごし方

22℃ 晴

8時過ぎに起床。今日も二人とも仕事は休み。身支度して近場を散歩する。
我々は公園情報センターHP(フルーツや山菜を探そう)を敬愛しており、「公園とは、自治体によって果物の木が計画的に植栽管理されている、実質果物食べ放題のフルーツパラダイスである」と確信している。家から歩いて15分ほどの場所にある公園のさくらんぼに目をつけているのだ。昨年時点ではGWごろに熟して食べごろであったため、今のタイミングはまだ時期尚早なのだろうとは思っていた。現地に到着するとやはり実ってはいるものの青い。今回は視察に留めまた5月頭に訪れようと思う。公園全体を練り歩いてさくらんぼの木は4本あることを確認した。

「いい歳した大人が木登りだなんてみっともない、、」という視点もあるかもなあとも思った。木登りは子どもだけに許されたレジャーではない。近辺に知り合いがいないのでどうでもいいのだが、仮にいたところでこんな片田舎で人間が木登りしていても誰も気に留めないだろう。自分は食欲が強い。いや食欲が強いだけならスーパーでお金出して木の実を買えという話だが、時期を見計らって木登りして収穫する営みに楽しみを見出している。


ついでにE川にも足を延ばして川辺で野花を摘んでこようということで、公園を奥へ抜けて裏道から左に曲がり、土手を登った。風がけっこう強い。E川は以前よりも減水しているとTが言う。そうなのだろうか?自分にはわからない。土手には薄荷が多く茂っている。貧乏草をTが嬉々として摘んでこちらに渡そうとするので「それは貧乏草じゃアホ!」とうっちゃる。どうやら「とてもきれいだから」と無邪気にこちらに寄こしてきたようで、ハルジオンを貧乏草と呼ぶのは関東の一部地域だけなのだろうと思った。貧乏草と認識してしまった限りは残念ながら受け取ることができない。自分は自分でアブラムシだらけの菜の花を嬉々として手折る。帰路の途中でアブラムシに気付いてギャアと叫んで花を捨てる。代わりに別の黄色い花とヒナゲシを摘んだ。最近では土手や公園で野草の1本も手折ってはならないとの教育が流布しているようだ。そういうのはめんどくさいので無視する。道中の焼き鳥屋で福祉作業所で作られたクッキーを2袋買う。Tはねぎまともも串を1本ずつ買う。こういうクッキー、美味しいけど作っている人は時給200円とかなんだよねと言う。営利目的で作っているわけじゃないから仕方ないとT。


帰宅して10時半ごろにブランチ。ホットサンドメーカーでアボカドベーコンチーズのホットサンドを作り、それからカフェオレと果物少々。ホットサンドって美味しいしすぐできるし洗い物が少なくて便利だねえとTがすっかり感心したようすで言う。そうそれだから一時期朝昼晩とホットサンドで暮らしていた時期もあった。何しろ食パンは8枚切で90円だからお財布にも優しいのだと応じる。

食後はアトリエで過ごす。放置されている画集や教本をめくりながら喋りつつ、Tに絵墨に触れてもらう。

13時過ぎくらいに解散。

その後一人になって、宅配を受け取った以外は泥のように眠る。
保坂和志『考える練習』を読む。するすると読める。

白水社の本棚 2024春」の「カフカ研究者のカフカ的世界」を読む。

 

自分は自覚していなかったものの自分の傍らに「良い子ちゃん」がいることによって随分と疲弊してきたので、Tのそばにいてのびのびと過ごし自然に触れられることを幸せだと思う。