240408mon

22℃ 雨


思索的ではないが多くの行動があり、充実した1日だった。
9時頃起床して、毟った草を捨てた。
温野菜(キャベツと豆)と目玉焼きとりんごを添えたヨーグルトを朝食に摂る。
フォルメン線描を行う。ト音記号に似た形になった。音符って対照に配置したらフォルメンなのではないかとか、家紋への言及を本の中に見つけてトレースしてみようかなどと考える。

いつもより念入りに風呂掃除を行う。洗濯機を2回回し、ベッドシーツや枕カバーも洗う。


酒蔵巡りなどして手に入れた福島~茨城~静岡の日本酒の写真を撮る。
撮影の際に地塗りしたキャンバスを下に置いたので酒瓶の重みのせいで少し凹んでしまってこんなのって絵描きとしてはあるまじき行為なんじゃないのとか思う。撮れた写真は背景が吸収地のマットでざらついたテクスチャとなった。こんなもんフォトショップで加工すればどうとでもなる。

altって何を書けばいいんだ?床に落ちる影の青がきれいですね

大吟醸正雪の青瓶

まともな撮影を行うのに気にするべき要素が多すぎるので物撮りは嫌いだ。もちろんズブの素人なんだけど、それはそれとして画面の中から余計な要素を排除しないと許せないと思う。

夕方から出社し8時間労働。ITパスポートの過去問を解く。
深夜タクシーによる帰宅。悪気はないのはわかるがちょっと話しかけてきて鬱陶しかった。

極めて強い願望を言うなら、ジェンダーにまつわる社会の諸々についてせっかくの自分の時間や思考エネルギーを費やしたくない。そういった理由で自分を消極的にノンバイナリーに分類する。可能であればいちいちくどくどと言及したくはない。鬱陶しい眼差しを拒絶するために、仕方がないからタグ付けしてやっているのである。性別にそれぞれの人間の(個性の・思想の)本質があると考える人間は、「男は〜と言った」「女は」と言うふうに主語を性別にするだろうし、日本語に訳す時に口調を誇張して「男性らしく」「女性らしく」訳すだろう(〜だぜ、〜だわ、〜よ、云々)。性別二元論の時代はあまりにも長く続いたので、我々はそうではない捉え方に不慣れだ。

ところで「人が一人で安心して生きられる社会であるべきだ」と強く願う人がいることに気づかない人間もいるだろう!そんなのは自分の身の回りや自分の属性のことしか考えていないドアホである。防犯にはお金と知恵と体力が要る。こういう嫌な思いをするのは自分の性別がこうだからなのかと落胆する出来事が、ほっといても日常的に発生する。行動が制限される。そう感じるのは多くの場合一方の性別に偏りがある。少なくとも日本の現代社会では。
人間は現実には、生まれてから何十年ものあいだ押し付けられるがままに片方の性別社会に属して、他者からの眼差しに規定されて日々振る舞わざるをえない。男性は、女性社会あるいは女性から見た社会を知らずに育つし、女性は男性社会あるいは男性から見た社会を知らずに育つ。そしてとても身近であるにも関わらず両者の差異がどれほど大きいものか想定されない。特に同年代の異性と親しくなる機会を持たずに育ち、そのまま生きている人間は。例えば男性がホモソーシャルにおいて生きることに息苦しさを感じたからといって、あるいはその男性に女性の友達が多いからといって、当人がそのまま女性になった場合に、女性社会に溶け込めるか、馴染めるか、居心地よく過ごせるかはわからない。「60歳になってもフリフリの少女趣味ワンピースを着こなして若いファンと戯れるバ美肉Vtuber」とはワケが違うのだ(そんなものがいるのかわからないが)。逆も然りである。


匿名の文章においてはバ美肉と同様の理想に没入することが可能だ。押し付けられた性別をやんわりと拒否する風」を演じなくて良い!そのなんと軽やかなことか!