230428fri

23℃ 雨

9時起床。豪雨だった。二重窓の隙間から横殴りの雨がサッシを濡らした。

「100円の恋」を最後まで見た。安藤サクラがぴょんぴょん跳ねながら繰り出してくる左フックが良い。一発殴られたい。人間讃歌だなあ。だらしないひと、弱いひと、かっこわるいひとが間抜けな調子で愛嬌たっぷりに登場する。強姦描写は胸糞悪いが(加えてバナナマン役の俳優が強姦事件を起こしたらしく地上波で流せないらしい、クソである)。
10時半ごろ駅前のキャンドゥまで出掛けて洗濯バサミとACアダプタを買った。その足で魚屋を覗いてネギトロを入手。スニーカーが浸水し、水の冷たさを覚えながら歩いてT邸に戻った。即席の味噌汁とネギトロ丼を作って昼食とした。

chatに保健師から連絡が来ており、自分が開示した情報が正式にハラスメント相談窓口から局長や総務へ渡ったそうだ。相手からの逆恨みが懸念されるので慎重に事を進めたいとのこと。この一悶着が起因で、のちに自分が関西に転勤する羽目になったらかなしーなー。相手より自分の方が業務遂行能力や会社貢献度は明らかに上なんだが。あとTとあんまり離れ離れになるようだったら、結婚を視野に入れたほうがいいということになる。何かあったときに真っ先に連絡が欲しいからだ。しかしそうしたら我々の、人間対人間の対等で幸福な期間が終わってしまうような気がする。社会的に認められたくないし親族との関係構築も嫌だ。

そういえばこの休職のこと結局両親に報告してないな。

PCで大学のサイトにログインし確認すると、英文学のレポートが添削されており、無事合格になっていた。

 著者はイギリス人の表現の自由は十分評価に値するという結論に至っている。過大評価の危険性について指摘し慎重深く歴史的事実を吟味し、むしろ民衆が表現の自由を規制されるに留まった演劇や、あるいは自国に批判的な George Owell のエッセーを貴重な反例として扱うことで、結論に説得力をもたらしているのである。本稿筆者はテキストの記述は正当な評価であり、この通りイギリス人の表現の自由は評価されるべきだと判断する。
 ただ「表現の自由といえばすわ pornography の解禁かと色めきたつ現代日本の場合と違って、18世紀のイギリス人が最も関心を抱いたのは、政治上の発言がどの程度まで許容されるかという問題であった。」という記述が示すとおり、テキスト内では専ら政治(と統治に関わる宗教権力)に対する自由が、猥褻性に対する自由よりも圧倒的に高い地位を与られている。政治以外の物事に対する表現の自由については無視されているといっても過言ではない。こうした「硬派な」表現の自由論であるテキストに対して、「軟派な」表現の自由論を補完させることが可能ではないだろうか。これが挟まれることによって、恋愛をテーマとするテキスト第2部への橋渡しになる。この視点に立った時、イギリスの軟派な表現の自由、即ち猥褻性にまつわる規制について大きく取り上げるべき項目は3点あるだろう。1857年制定の猥褻出版物禁止法、そして発禁処分を受けた1928年の David Herbert Richards Lawrence の Lady Chatterley's Lover 、および猥褻裁判を引き起こした1918-20年の James Augustine Aloysius Joyce Ulysses である。

(24年5月、自分が書いたレポートAより)

……この解釈が適切であるとするなら、Greene が現代において宗教的ジレンマを題材にした小説を書くとき、前時代における神にとって替わり、神のように自分の作品を作り、情事の相手を媒介にし、神によって挫折する「救われない」語り手Bendrix を設定することが、作者として決定的に必要であったといえる。作家意識を崩壊させているのも小説創作の無効を意識しているのもBendrix であってGreene ではないということが重要なのである。こうした入れ子構造を用いることによって、Greene は現代における文学の可能性を開拓した。The End of the Affair において、Bendrix は救われない語り手でなくてはならない理由が明確にある。

(24年5月、自分が書いたレポートBより)

なんもやる気出ないクソッタレ

Tが帰国したら一緒に食べたいものリストをTにLINEで送る。すき焼き、季節の天ぷら、エビのパエリア、桃、あんみつ……

夕食は袋麺をお好み焼きソースで炒めた焼きそば。

25時半ごろ就寝。