240418thur うるさ型ハイパーガッカリ展

21℃ 曇

8時に起床しゴミを出し、お弁当にサンドイッチを作って9時ごろ家を発つ。

11時手前から○野の○洋美術館にて現代アートの展示を観る。結局そこかよ、学生の文化祭展示を見たときの感想と一緒じゃんという話なのだが、とにかく文字量が多すぎてうるさい。

自分は活字を好む性質だが、美術館のあの空間にあの文字量を置くことがどういう意味を持つかそのあたりのバランスに配慮されておらず、鑑賞体験全体をキュレーションする操作が弱い点は気にかかる。順番に回っていくと眼と精神のチューニングが追いつかない。ちょっと古い印象を受けたのだけれど、こういうのが――ネットに開陳された現場の顛末を逐一追って「面白がる」ことまで含めてこういうのが同時代のものであるなら、自分は見るのも作るのも完全にもういいやと思った。圧倒的につまらない。面倒を見てあげるのがだるすぎる。こういうのより面白い本が他にもいくらでもある。そう感じた。しかし最後の部屋、辰野登恵子に始まり坂本夏子に終わる最後の部屋はかなり魅力的で、あの部屋ばかりが最も雄弁だと感じ、何周も見て回った。

 

上◯公園で八重桜を見る。

20240418上野の八重桜

あんみつみはしでみつ豆を食べ、御徒町まで歩き、吉池とハラルフードショップを覗く。ソーンパプディとサモサを入手。

電車で移動し出勤。8時間労働ののちチョコザップでワークアウト。

 

普段Tと2人でいる時の意思決定はこちらに委ねさせてもらっているものの、自分はTを(その盲導犬のようなおっとりとした柔和さ、繊細さ、賢さによって)崇拝しているところがある。人柄が良すぎて、容姿までもがうつくしく見えてくる。この人のこころのうつくしさは神から愛される類のピュアネスだ。きっと神は自分の膝下にTのたましいを置いておきたがるだろうから、地上に長く留めておかないのではないか。長生きしないのではないかとはらはらする。親しくなってから2年経つがそう思う。

自分に欠けているものの全てがあるようにも思うし、自分の半身であるようにも思うし、それでいて予め半分が失われているようにも思う。

それで自分は、何かをひとびとに向けて表現することへの意欲はすっかり失われてしまって、「表現とは心のパンツを脱ぐこと」だとするなら自分はそういうのはもう全く興味がない。

ただ視覚とは何かかんがえること、精神のウチとソトにある宇宙のこと、線と色とで遊ぶことには興味が深く、そうしたことに、残りの時間かけて打ち込んでいきたい。

 

帰宅は24時半だったか。家に着いてから、深夜にも関わらずいなばのカレー缶を食べてしまった。