240415mon 花見・原爆映画・湯けむり=甘辛仕様

23℃ 晴

8時過ぎに起床。

果実とヨーグルトで朝食を摂る。
Tが青ざめた顔で言う。二人で行く予定でいた釣り堀もレンタサイクルも土日のみの営業で、今日は定休日だったとのこと。これだから平日昼に遊び慣れていない人種は!!!!半ば呆れながら、次から、Tの計画を受け取ったら実現可能であるかどうかこちらがチェックすることにするよと応じる。

駅まで歩き、電車移動した先のOでショッピングモールを回る。

3COINSが進化しており、たいへん充実した品揃えにびっくりする。
1階でお弁当を買って近くの公園で花見。

昼過ぎから映画「オッペンハイマー」を観る。史実を知っていれば十全に楽しめるかというとそういうことではないと思う。時間があまりにも圧縮されており密度が高い。ハイコンテクストというかその土地特有のアメリカンジョークが飛び交い全体的に畳み掛けるようなスピードで展開が速く、理解が追いつく前に次の場面に切り替わる。それでも「?」と疑問に感じていた部分のほとんどが伏線だったもようで、後半にその回収が多くその点はスッキリした。例えばその当時のアメリ共産党思想の社会的位置付けを把握しきれていない部分があったが証言尋問でその点も突っ込まれていた。

オッペンハイマーアイヒマンに通じるところがあるなと直感。極めて優秀だが自我が薄いのである。仮にオッペンハイマーがいなかったらアメリカはもっと不利な事態になっていただろうか。きっと何もかもさほど変わらない。他の誰かしらが同じことをやってのけただろう。ところで自分は当然のことながら原爆投下後の世界を生きており、被爆国である日本人の視点が徹底的に排除された(この「排除」というのは無視するとか軽んじるとかいった道徳的に非難されるべき行為を意味するものではない。単にこの作品内ではフォーカスするものにのみフォーカスするという方法論的なもの)世界というものを全く想定したことがなかったため、こういう目線が!?!?と驚いた。被爆国の国民だからということなのか。オッペンハイマーの視点は、映画を見始めるまで全く想像することができなかった。

 

鑑賞後にスパメッツァおおたかへ。2年前にオープンし話題となったスーパー銭湯である。岩盤浴が楽しめるとのことでTが行きたいと所望していたのだ。会計システムが極めて洗練されており、施設内が新しく清潔でストレスフリー、岩盤浴の種類や浴槽の種類も豊富で、広々として寛げる空間だ。1階で注文したソフトクリームが想像の2倍の大きさだった。

帰宅して酒をあけながら歓談。
22時ごろには就寝。

240414sun 森鴎外記念館のグレー・つつじ祭りのピンク

23℃ 晴

9時ごろ起床。午前中は「オッペンハイマー」の観劇予定をTが立てていたものの予約しそびれ、昨晩の時点でSの映画館はもう席が埋まってしまったのだそうだ。そのため何の予定もなく。Tは昨日の11時間にのぼる飛行機移動で疲れていたのだろう。長く眠った。そのあいだ自分は春雨スープを食べて小腹を満たし、携えていた保坂和志『小説の自由』を読む。ぽちぽち文字を打ち込んでiphoneからブログを更新。iphoneからではスピードが出ないのとコピペがやりづらい。

正午ごろTが起床。一人では食べきれないからと自宅より持ってきた喜多方ラーメンを茹でて食べた。ネギとわかめと卵。生麺は冷蔵保管するとダマになりやすいみたいだ。同じラーメンとはいえ生麺は乾麺とは別の食べ物だなあという素朴な感想。乾麺は油で揚げてあるからジャンク風味なんじゃないか。自分は生麺より乾麺の方が好きだ。福島の喜多方というところは酒蔵とラーメン屋がたくさんあって不思議なところだった(飯豊山の水が美味いことから発展した産業らしい)。都内には喜多方ラーメンのチェーン店があるらしい。そうしたとりとめがなく大したことのない雑談を重ねる。Tは1ヶ月近く前に出先の日本食料理屋に連れられていってラーメンを食べたらしい。海外の日本食料理屋であえてわざわざラーメンを!話を聞くに土地の事情により肉と酒を禁じられ修行僧(あるいは流刑囚)のような生活だったそうだから、普段は蕎麦派であるTもこってりしたものを摂りたくなったのではないかと想像。そういえば先ほど転がっているTに視線をやったら足裏のシルエットが明らかに細長くなっており、おそらく3〜5キロは減量しているのではないかと指摘。Tはワクワクしながら「明日大浴場に行く際に体重計で確かめてみる」とのこと。ワクワクするようなことだろうか?

13時半ごろ家を発つ。根津の森鴎外記念館へ。建築が良いのだと聞いて足を運んだ。確かに建築がかっこいい。設計者は陶器二三雄氏。とうき、、にさお氏?否ふみお氏だそうだ。職人手作りのレンガを張って削った外壁がすばらしいものであるらしい。Tは外壁を撫でてニコニコしていた。Tはすてきな建築を見るさいには、建物の内壁や外壁に手で触れてニコニコする。これだけ大きなものを愛でられるのはちょっと感覚が違うなと思う。

森鴎外の良さは今ひとつピンときていなかったのだが展示を見ていて少し魅了された。いや嘘。魅了されたというよりは「まあ勉強するかあ」と思った。読むのなら庶民派の夏目漱石を読みたい。森鴎外は格調高すぎてついていくのに一苦労。


道端の看板に吸い寄せられその場の流れで根津神社つつじ祭りへ。昨年駒場に行った時も偶然駒場祭に出くわしてヘエとかホオと感心しながら屋台で食いもん買って二人ではしゃいでいた。こちらは人混みが大嫌いなので祭りがあると予め知っていたら避けただろうが、偶然遭遇した祭りは恐れていた祭りのイメージよりは酷いものでもなく、フワッと楽しめていたような気がする。根津神社の入り口で今川焼きのチョコを注文した。一口齧って、売り主の勘違いでクリームが入っていることに気づく。面倒なのでそのまま食べる。日曜の夕方にしては、境内は抑えめの人入りだ。

珍しく革靴で長く歩いたため、疲れから喫茶店に入る。

二人で会話していたらシンプルな厚意から会話に割り込んできた中年がいてびっくりした。最寄りのATMはどこかということを教えてくれたのだった。
Nに着いてから自宅に荷物を置き寿司屋へ向かう。


ちょっとこのへんは後で書き足そう。あんま編集せずだらだら書いてもなあとも思うが、、

240413sat

20℃ 晴

8時ごろ起床。

春の暖かさに触発され、最近は午後からの仕事であっても起床は8時くらいが標準となっている。前夜に眠れないからといって飲酒すると寝坊する可能性が生じるので注意しよう。いうて寝坊など1年に1度もやらかさないのだが。

寝坊にせよ忘れ物にせよ紛失盗難にせよ「自分はやらかさない認識」でいると、実際にやらかした時のショックが大きい。仕事もまた、周りの人々を見ていて「自分は決定的なミスはしない」という認識でいる。しかし細かい作業とスピード感を求められる内容であるため、年数重ねるうちに1度は失敗するだろう。あるいは老化とともに失敗する頻度が高い側の人間になるとも限らない。なるべく寛大かつ鷹揚であらねばいつの日にか自分で自分の首を絞めることになる。普段からうっかり者の看板でよろしくやっているので、引き続きしっかり者ではなくうっかり者を心がけよう。

 

今日はやることが多かった。

まず9時に家を出て東京ステーションギャラリー安井仲治展。その後八重洲地下街の喫茶アロマで厚切りトーストにバター、ジャム、小豆。珈琲はおかわり含め二杯。12時半からアーティゾン美術館のブランクーシを観る。こちらの美術館は企画展も含めいつも学生無料なのである。常設コレクションも観る。そうして午後から出社。

MarineTrafficやGoogle Trendsによる情報確認手続きを習得。

ITパスポートのマネジメント系の過去問とラテン語第5変化名詞に取り組む。Carpe diem.

森鴎外の「夢」「牛鍋」を読み、単語を調べて書きとる。例えば「邯鄲の夢」やハムモンドの「男子月経」、「満つれば虧く」などといったもの。

 

22時過ぎに会社を立つ。T邸へ。テレビが坂本龍一の番組を放映していた。出張先のスパイスがきいたワインと近くで買った焼き鮪でもてなしてくれた。今日の午後に帰国してすぐ美容室へ髪を切りに行ったらしい。3ヶ月半放置していたから髪が増えすぎたと言っていた。銭湯にも久しぶりに行ったようだ。変わらず綺麗好きだと感心する。こちらは日本人水準ではかなり杜撰な方なので、いつか愛想を尽かされるのではないかと冷や冷やしている。それに大鬱になったらもちろん入浴もしないし洗濯もしない、歯も磨かない。自分はTが先月末に帰ってくるものだと思っていたので、半月前に髪を切ったそのままだ。

あまりにも日常的な光景であり、感動の再会はなかった。会話していて3ヶ月ぶりである感じもしなかった。毎週末のリモート飲み会の賜物である。

ただもう荒まなくていい。自分の心はこれ以上荒まなくていいのだとわかった。乗り切れたのだ。過ぎてみればあっけないものだった。来月またTは出国するけれど、もうさほどの長い出張ではないし、基本的には楽しく暮らしていけるといってよい。

 

 

ふと3年前まで時の人であった眞子さんのことを思い起こした。

彼女は学芸員、あるいは美術館勤務労働者としてやっていけているのだろうかと気にはかかったが、プライベートを調べるほどでもないように思い、うっちゃった。

240412fri

16℃ 雨

8時ごろ起床しゴミ捨てに奔走。

その後果実を冷蔵保存に耐えるよう房と葉の配置の処理を施す。今日のぶんはすぐ口に放り込む。メロンは甘い。赤ぶどうは皮ごと食べられる。皮の部分の渋みが強い。苺は甘すぎない。野生的な食べ応え。心は十分満ち足りる。

メロン、いちご、赤葡萄が白い皿の上に盛られている

アトリエでは集中できず。大した進捗はない。数日後Tが来た際に、何か手を動かしてもらおうかと思う。

昼ごろにYからストーキング行為が更に過激化し精神的に追い詰められているとのLINE。先日引越しを現実的に検討している旨聞いていたが、Nにすると決めたらしい。警察以外の救済手段も調べて返信。本当に困っているのだからうちに来ればいい、一人分くらいなら養える、とそのように応答したが、貧困の苦しみに心底打ちひしがれたことがない自分にとって、こんなのは本気ではないのかもしれない、本気でないのにこんなことを言うのだと、ただいい人ぶっているだけだと少しの自己嫌悪。現に自分などが、具体的に人に手をさしのべられる機会、人を背負わせてもらえる機会はそう多くないので、自分がやさしい人間ぶれる、ありがたがられて気持ちよくなれるのであればその機会を逃さず、いい人ぶる。自分でそれをわかっているので自己肯定感は上がらない。

困っている弱者に優しくして自分をヒーローだと思い込みたがる、ヒロイズムに酔いたい人は酔っていればよろしい。自分は自分と対等に関われる人を望む。以前の状況とは違うから、Yは困ってももううちには来ない。ただもし頼ってきた時には、以前よりもっと柔らかく弱々しい仕方で手をとろうと思う。

 

午後から在宅勤務。特筆すべき点はなし。ネットで練炭の使い方を見かけてつい保存。

しかし普段から、視界に映るもの全てに殺意を持ちこの視界に他者の肉体を入れたくないのだと息巻いている自分のような人間は、自分が他人に手をかけることには容易に想像が及ぶが、自分の後始末をすることに対しては心理的距離が遠い。もう疲れた。10歳の頃から生き残ったことをずっと悔いていて、どうにもならない。自分には魂の救済のことはわからない。わからなさに耐えるのは得意だ。

舞踏家が、現代という時代においては誰しも頭でっかちになりやすいし、皆自分のことを神だとでも思い込んでいるだろうよと言っていた。3ヶ月くらい前に。被害者ヅラが得意な神なんて最悪だよな。

 

18時過ぎにipadが届くが感慨はなし。包装を解きもせず放置した。
明日にはようやっとTが帰国する。

 

240411thur

19℃ 晴

起きると8時半。寝坊した!

しかし遅刻したところでこの時間はワンオペであり職場には自分の他に誰もおらず、報告しなくともバレない。が、さすがにそれはお金を貰ってる身としてあかんと思い、在宅の先輩に報告。その先輩も先日から子供の発熱で作業着手が遅れる見込み。

始業5分遅れで現場に到着。もちろん誰もいないし、仕事もあまりない。朝ならOKということでメロンパンをコンビニで買って食べる。

日米同盟強化、円安の報道。習近平が台湾前総統と対談。最近は出社した日だけでもPCに報道の要点をまとめることにしている。

徐々に人が増えるが静かな職場である。相変わらずアホが有能な大人気取りで忙しぶってふんぞりかえっている。アホのクソキノコである(サン=テグジュペリ星の王子さま』参照)。仕事があるなら回せと口にする真っ当な周囲の人間を小馬鹿にし機会を取り上げ、からかって仕事を与えないでおく手口なのだ。マジクソくだらない。お前は一生誰からも愛されない。

『大事なことで忙しい! 私は有能な人間だから!』そうしてふんぞり返ってた。でもそんなのは人間じゃない。キノコだ!

 

やる気がないので内職に着手する。ラテン語の第4変化名詞の活用を書き取りセネカ『倫理書簡集』から例文。ITパスポートのマネジメント系の過去問に取り組む。

昼は弁当。晩にこさえた、糸蒟蒻とかぼちゃと鶏の煮付け、ピーマンと玉ねぎの豆板醤炒め、そしてインスタント味噌汁、バナナと蒟蒻畑と麦飯。食堂の窓から、乱立する高層ビル群とビル屋上で植物の世話をする人が見える。

午後16時あたりからにわかに忙しくなり、当日〆のボリュームのある仕事が舞い込む。珍しく30分の残業。普段かっちり定時上がりなので、残業は一ヵ月ぶりくらいだと思われる。

帰りに途中駅のスーパーで買い叩かれていた赤葡萄、ゴールデンキウイ、半分の小玉メロン、それから苺を買う。全部で900円ほど。小市民である自分が理想とするのは、果物と花がある暮らしだ。そういえばアトリエのスイートピーがぐったりしている。そろそろ一輪、花屋で何か買いたい。

チョコザップで30分ワークアウトをこなす。20時ごろだったか。

帰宅して作り置きの惣菜3種、麦飯、ミニトマト、納豆、インスタントスープの夕餉を食べる。昨日の日記を書いてブログを投稿する。8時間労働後にこれだけ書ければ十分だろう!しかし福永武彦はえらいテキトーな感想になっちゃったな。タイトルの「樹」の繰り返されるイメージがむしろ重要なのに、そのへん鑑みることなく暗いヨと書き殴ってしまった。でも別にこれはこれで、他に読みたい本があるからいいやと思った。

 

今日一日を過ごしながら疑問に思っていたのは、シンボルとメタファー概念の対比である。

ある定まった表現体系から常に逸脱しつつ新たな可能性を探ろうとする「メタファー(隠喩)」、逆にそうした体系そのものをいくつかの根源的なイメージに集中させていこうとする「シンボル(象徴)」。

東京国立近代美術館HP 「メタファーとシンボル:現代美術への視点」1984〜85年 )

 

ああ、あとそれから、川村記念で見たカール・アンドレ展と佐倉市美「さくらと花と」の感想について0330付記事を、早く書き添えて更新しなくては。

ひとまず今日はここまで。

240410wed

17℃ 快晴

今日は休みの日で特に予定がなかった。

アトリエでこれまでのフォルメンを眺めていて、そろそろ次の段階に、いや、まだここに留まって量産すべきなのか?とぼんやりした。

朝食は、昨日の残り物のひじき煮と、温奴とわかめのお味噌汁と山葵納豆とキムチとししゃも3尾と麦ごはん。

風呂場にてカビ予防の煙を炊く。

 

書棚を整理し、福永武彦『廃市・飛ぶ男』を取り出す。福永武彦は10年近く前に『草の花』を読んだっきりでその後一度も本を開いたことがなかった。

幹をなしていたのは、彼の絵が彼という人間に対して持っている意味だった。彼、――彼は学業を中途で止め、好きな絵を描くことに熱中した。その彼がもう二十年近くもこの一筋の道に縋りつきながら、依然として貧しい無名の画家にすぎず、嘗て一枚の絵も売れたことはなく、今まで二度ほど開いた個展も何等の反響を呼ばず、常に病気と生活とに追われて苦しんでいるのは何のせいなのだろうか。それは彼が親の意志に背き、自ら窮乏を歩み、生来の人嫌いと頑固さとを失わず、進んで人に頭を下げることをしなかったためなのか。

福永武彦『廃市・飛ぶ男』「樹」p205-206)

 

ほっほーん???あたくしこういうカタにはまった芸術家像だあいっっきらい!!!と思って読み進めていたら、そのクソまじめで不器用で頭が堅くて辛気臭い面下げた絵描きが妻から離婚を切り出されていて同情した。とはいえ芸術への情熱があるばかりでなく、家庭を持つ喜びと責任までも経験できたんだから、そんじょそこらの人並み以上に豊かな人生(豊かな失敗)じゃ〜ん☆オッケ〜〜☆☆人生経験豊か〜〜☆☆☆人生長いから奥さんに逃げられても一人で自炊して強く生きていけよ!あと被害者みたいな顔してんじゃねえバーカ!!と思った。それにしても筆致が暗すぎる。人生の悲哀ってそのまま人生の豊かさだなー。あー悲しい悲しい(棒読み)

↑久しぶりにアホみたいに暗い文章読んでびっくりした感想です。自分は昔は暗い文章が好きだったんだ。

てか絵を売りに出していて本当にマジで一枚も売れないとかありうるか?だいたい活動初期の頃は知り合いか何かがお情けで買ってくれたりするもんじゃない?そのへんリアリティないよな。別にリアリティなくてもいいけどさ。幸薄くて不器用な絵描き萌えってやつなのか?

 

Appleの学生新生活キャンペーンが今日で終わるということで、満を辞してipadをポチった。ipadを初めて入手するが、たんに描画作業効率化のためなのであまりワクワク感はない。

デジタルで絵を描くことに慣れていっても、それを自慢する類の薄っぺらいナルシストクソバカにはなるまいと思った。自分はどちらかというと、自分で顔料から絵具を作ることに五感で喜びを感じるプリミティブ方向への志向を持つ。デジタル作業は食っていくための余剰スキルだ。

 

おやつの時間に、業務スーパーで1年前に買った冷凍パイ生地を解凍しさんかくに切り分け、チョコとバナナを包んでパイを焼いた。普段忘れ去られているオーブンレンジのオーブンの部分(下手くそな部分ツイートみたいになった)であるが、たまには何か焼いてみようと思ったのだ。できたものを写真に撮ってTにLINEした。「おいしそ」と返信があった。それでパイ作りには満足した。

夕食に卵焼きを焼いて、昨日の残りのひじき煮と、キャベツや豆を蒸して塩かけた温野菜サラダと、ししゃも2尾と麦ごはんを食べる。

20時ごろからレイトショー。自転車を漕ぎ、家の最寄りの映画館でDUNE二作目を観た。

うーん。画作りは素晴らしいんだけどストーリーに魅力を感じられない。掘り下げたり、何らかのシンボルとしてあれこれ解釈したいと思うほどの奥行きを自分は感じなかった。恐怖政治で回している敵側組織の、その迫力を出すための小細工演出がわざとらしすぎてペラいのが致命的だ。エンタメ作品。同じ壮大なドラマSFなら銀河英雄伝説みたいな思想対決と人間ドラマが好きだ。

「画作りは素晴らしいんだけど」と自分がこういう感想を持つときはたいてい、実は画作りの部分に対しても感心していないし、どこか他人事で、自分の好みではない。今風の3DCGでツルッとしていて視覚の快楽がない。例えば新海誠作品についてもそういうことを思っている。思うばかりでなく口に出して新海ファンに怒られたこともある。なぜ「個人の感想」を口にしただけで怒られるのか。その理由は、自分はそのとき接客中の身であり、件の新海ファンは客だったからだ。感情労働をこなすことこそ自分の任務、と思ってその時はヘラヘラ謝った。お金を稼ぐにあたっては、建前が大事だ。

 

帰宅して日付が変わってから明日の出社弁当用に2種類のおかずを作り、その後入浴した。

入眠のため、と思って温かい豆乳を入れたマグカップにダークラムの瓶の口を傾けたらドボドボッッと注ぎすぎてしまった。もったいないのでそのまま飲む。豆乳味のラムだ。顔が熱くなる。

240409tue

19℃ 雨

定かではないが10時ごろ起床?肌寒い一日だった。

一昨日スーパーで入手した乾物の件だが、昨日の時点で封を切り水で戻し、切り干し大根とひじきと舞茸の甘辛煮を作ってみた。これが美味しかったため、今日はサラダチキンも加えて鍋いっぱいに作り、ご飯に乗せて食べた。気に入ると毎日でも同じものを食べる類の人間なので食生活にはお金がかからない。

今日は制作はなし!諸々の片付けを行い、細々と掃除する。
ブログを3日分更新する。3日分ともなるとこの日このとき自分はこう感じてこう考えたという細部が朧げになっており、書いた瞬間の思考を書き連ねることになる。行動としてはその日のものだが、思考は書いている時点(体験の1〜2日後)のものだ。思い出しながらその日の記憶を作っている感覚。ブログで日記をつけ始めてから独りよがりな俺日記を人様に送りつけることがなくなって人間関係的にプラスになっている。このブログは独りよがりでとてもつたないものだが、それで仕方ないのだと思う。鏡で自分の顔と眼差しを確認するためのもの。それが思考の深みにあるか浅瀬にあるかはよくわからないが、とにかくどこかに吐き出す必要があることを感じている。数年前新卒で社会人になってからというもの、院にいた頃のようにレポートや論文を書くことがなくなった。これが辛かった。2000字〜4000字〜数万字を日常的に書く機会がない。それは自分にとっては絵を描く機会がないのと同様……否比較する類のものではなくどちらがキツいかもわからないが、とにかく自分の回路においては実技と理論は両輪として回っている。日常的に文章を書いて人目にさらしていないと気が済まないから就職後に通信制で大学に入り直した。文学部であるが、レポートは書けば順調に受理されるし審査も通る。

ところで就職するまでは実家から援助を受けたが、就職してからあとの学費や家賃は自分で稼いで捻出している。こんなことは奨学金の返済に追われている若者からすれば取るに足らないだろう。自分が自立するまで長年支えてくれた人々に頭を垂れ、さも「自分一人で立派に自立しております」などとふんぞり返らないことである。まあでも正直内心では「よくここまで恢復することができたもんだよ」と自分で自分にふんぞり返っちゃうんだよなあ。人一人が自立して生活すること以上に尊いことなんてあるのかしら。災害や病気や貧困や諸々により人間同士助け合うしか手立てがない状況に、長い人生のなかで何度も陥る。けれど「自立が尊い」と思って、その「尊い自立」を目指して様々なことをコントロールしていくのが良いと思うんだよ。自立すれば自分で自分の感性を守れるし。自分の感性を守ったまま関われる他者を選べるし。今ふと思ったんだけど自分が尊んでいるのは「自立を前提にした孤独」かもしれないな。ある程度孤独を保てないと制作できないわけじゃんか。それだから感受性や衛生観念や思想が大きく異なる人々と「助け合いの生活」なんか全然したくないんだよな。実家を出てから人生がグッと楽になった……。これはもう今後の日記でも何度でもしつこく書くに違いないのだけれど、自分の幼少期がハードモードすぎて幸せな記憶が全くない。途上国を何カ国も連れ回した挙句帰国してからも家庭で里子を引き取るような「特殊な両親」を持った結果がこれだよ。家族が幸せかはよう知らんけど、自分自身は今一人で、とても幸せに暮らしている。過去の苦しい記憶がなくなりさえすれば、自分が生まれてきたことを、自分は肯定できるのだろうか?しかしそうした場合は(地球全体から俯瞰したとき)自分がいかに恵まれているかも理解できなくなるが?つまりちょっと幸せなアホになるけどいいのか?本当に?

自分は言葉や文章を専門とする人間ではないので、込み入っていて複雑なことや専門的なこと(例えば美術の専門的なことを言語化する場面においてさえ、実技の人間としての言葉になってしまうので、美術史研究や表象文化論の言葉では書けないと思う、基本のお作法を習得していない)は言い表せられないし、特別ユーモアのセンスもないけど、それが自分なのだからこう書くほかない。

 

午後から在宅勤務。仕事はあるのだがモチベーションは低く、うだうだと作業した。

夕方に、福神漬けを添えてレトルトカレーを食べる。

22時ごろ観念して布団に潜り込む。

今週末にTが帰国したのち1ヶ月の間は、きっとブログの更新をサボりがちになるだろうなあ。

240408mon

22℃ 雨


思索的ではないが多くの行動があり、充実した1日だった。
9時頃起床して、毟った草を捨てた。
温野菜(キャベツと豆)と目玉焼きとりんごを添えたヨーグルトを朝食に摂る。
フォルメン線描を行う。ト音記号に似た形になった。音符って対照に配置したらフォルメンなのではないかとか、家紋への言及を本の中に見つけてトレースしてみようかなどと考える。

いつもより念入りに風呂掃除を行う。洗濯機を2回回し、ベッドシーツや枕カバーも洗う。


酒蔵巡りなどして手に入れた福島~茨城~静岡の日本酒の写真を撮る。
撮影の際に地塗りしたキャンバスを下に置いたので酒瓶の重みのせいで少し凹んでしまってこんなのって絵描きとしてはあるまじき行為なんじゃないのとか思う。撮れた写真は背景が吸収地のマットでざらついたテクスチャとなった。こんなもんフォトショップで加工すればどうとでもなる。

altって何を書けばいいんだ?床に落ちる影の青がきれいですね

大吟醸正雪の青瓶

まともな撮影を行うのに気にするべき要素が多すぎるので物撮りは嫌いだ。もちろんズブの素人なんだけど、それはそれとして画面の中から余計な要素を排除しないと許せないと思う。

夕方から出社し8時間労働。ITパスポートの過去問を解く。
深夜タクシーによる帰宅。悪気はないのはわかるがちょっと話しかけてきて鬱陶しかった。

極めて強い願望を言うなら、ジェンダーにまつわる社会の諸々についてせっかくの自分の時間や思考エネルギーを費やしたくない。そういった理由で自分を消極的にノンバイナリーに分類する。可能であればいちいちくどくどと言及したくはない。鬱陶しい眼差しを拒絶するために、仕方がないからタグ付けしてやっているのである。性別にそれぞれの人間の(個性の・思想の)本質があると考える人間は、「男は〜と言った」「女は」と言うふうに主語を性別にするだろうし、日本語に訳す時に口調を誇張して「男性らしく」「女性らしく」訳すだろう(〜だぜ、〜だわ、〜よ、云々)。性別二元論の時代はあまりにも長く続いたので、我々はそうではない捉え方に不慣れだ。

ところで「人が一人で安心して生きられる社会であるべきだ」と強く願う人がいることに気づかない人間もいるだろう!そんなのは自分の身の回りや自分の属性のことしか考えていないドアホである。防犯にはお金と知恵と体力が要る。こういう嫌な思いをするのは自分の性別がこうだからなのかと落胆する出来事が、ほっといても日常的に発生する。行動が制限される。そう感じるのは多くの場合一方の性別に偏りがある。少なくとも日本の現代社会では。
人間は現実には、生まれてから何十年ものあいだ押し付けられるがままに片方の性別社会に属して、他者からの眼差しに規定されて日々振る舞わざるをえない。男性は、女性社会あるいは女性から見た社会を知らずに育つし、女性は男性社会あるいは男性から見た社会を知らずに育つ。そしてとても身近であるにも関わらず両者の差異がどれほど大きいものか想定されない。特に同年代の異性と親しくなる機会を持たずに育ち、そのまま生きている人間は。例えば男性がホモソーシャルにおいて生きることに息苦しさを感じたからといって、あるいはその男性に女性の友達が多いからといって、当人がそのまま女性になった場合に、女性社会に溶け込めるか、馴染めるか、居心地よく過ごせるかはわからない。「60歳になってもフリフリの少女趣味ワンピースを着こなして若いファンと戯れるバ美肉Vtuber」とはワケが違うのだ(そんなものがいるのかわからないが)。逆も然りである。


匿名の文章においてはバ美肉と同様の理想に没入することが可能だ。押し付けられた性別をやんわりと拒否する風」を演じなくて良い!そのなんと軽やかなことか!

240407sun

22℃ 曇

10時頃から身支度を整えて出社。
もろもろ発注があり、いつもよりは仕事した。

ラテン語の格変化とITパスポート(ストラテジ系一通り済む)。内職のイラスト制作も捗る。「いつもきれいにご利用いただきありがとうございます」「筆談できます」「トイレありません」「授乳スペースあります」「歓迎会のお知らせ」といった貼り紙としての需要がありそうな題材を、一部英語中国語韓国語入り(インバウンドや移民労働者対応)でイラストつけてデザインしてみた。こういうのは練習にも人助けにもなっていいんじゃないのと思う。避難所や医療機関地方自治体とかで使えそう。使ってほしい。フリー素材のサイトに登録しておく。審査おっそい。

 

帰宅途中21時頃にチョコザップ。土曜日だけあってか人が多く室内が蒸されている。ルーチンの身体作りに勤しむ。
スーパーの店内を練り歩き、切り干し大根やひじき、干し海老など乾物を買ってみる。
一人暮らし100年目であるが、実は今までこういう乾物を自炊に取り入れたことがなかった。
健康に良いのではないか。安いし。水にさらすとかなり増えるし。


帰宅し、がんも、温奴、かつお、油揚げ、キムチ、キャベツの浅漬け、納豆、味噌汁をたいらげる。22時でも気にしない。
TとLINE。いよいよ残り1週間で帰国!Tは珍しくデレていた。

 


もし10年以内にTが死んだら子供を持たなかったことを後悔するだろうか?

これについてはまま考える。つまり自分が生き延びるために、相手の面影を宿す小さい人を自分の傍らに置いておきたいという欲望である。自分はTの遺伝子を好んでいるのではなくて、Tのものの考え方、価値観、感受性、身体性が好きなだけなので、仮にその遺伝子を継いだ人間が目の前にいても愛するとは限らない。では長い時間かけて体験を共有して、思い出を分かちあえる存在としての子供を想定するならどうだろうか?否こういう発想自体が独身そのものだ。子供を媒介にして恋人を愛するというのは、子供を根本的に「自分の最優先対象」として見られない幼さ=親として適性がないと判断するほかない。今の関係性、互いに制作物をシェアできる良き理解者としての相手を好んでいるので、制作の邪魔になる存在が間に入り込んできた時に、その存在と関係性の変化を間違いなく嫌悪するだろう。

だいたい生まれるに値しないと感じる世界に存在を導くのは、自分の根源的感情に背いており子供と自分どちらともに対して不誠実だ。自分には聴覚過敏と視線恐怖がある。ただ安定した職と、少ないものの交友には恵まれており、一定部分ノーマライズされている。Tが死んだらそれはその時考えよう。

自分だってこんな辛気臭いことばかり考えずに面白おかしく生きて面白おかしく死んでいきたいのについ意志的な態度をサボってしまって辛気臭くなる。スピノザを読みなさい(なんかちょっとちがう)。オモコロとか読みなさい。知らんけど。

引用とかできるならしたほうが日記の内容にレイヤーが生じて面白くなるのではと思う。

240406sat

15℃ 雨
11時前に起床。


先週あたりに「来週こそは春を楽しめる天気となるに違いない」と思っていた記憶があるが悪天候続きでほとんど梅雨みたい。なんで?

自分が投稿した最近の日記を読み返すと誤字脱字を見つけたり、ああこれも書いとけば良かったかなと思ってつい書き足したり修正したりしてしまって、キリがない。「日記を書くぞ」というタイミングで十全に日記を完成させられない。思い出した時点でどんどん書き加えて、ちょっと自己陶酔が過ぎるのではないかという部分や鼻につく言い回しや気持ち悪い表現はザクッと消している。
どう更新したところで自分のエゴのカタマリ感はこういう具合なんだよ~というのがえんえん記録されていくだけなのだが、こんなんでいいのだろうか。自己理解が深まりそうというか深まるといいなあというか。フェイクの入れ方がよくわかってないので知人友人が読んだら身バレするなコレ。知人も友人も少ないのでアレだけど。地名や店名くらいはフェイク入れとくか。
偽りのない現実そのままが面白いという実感は何を指しているのか?現実を面白く感受する・解釈する心の健康と余裕があること!起きていることを現実と同等に面白く語る。語ることによってそのように現実の面白さを理解する。そのための脚色&フェイクを加える方法を探る。

下手するとごまかしだか都合のよい自己演出の虚構だかになって自己理解から遠ざかる。本当にそうなのか?自己理解って何?そういえば最近の流行りは分人主義や中動態らしくて個人だの自由意思だの理性によるコントロールだのアイデンティティだのは時代遅れらしい。なんつうか一理あるのはわかるけど「流行りのホットな現代思想とやらを一生追っかけ回してオシャレぶってコーヒー豆でも挽いてろよ」みたいな窮屈さもあるので自分の前でそういうのを解説しないでほしいと思っちゃう。

いや悪口にしちゃうけど自分も結構「丁寧な暮らし」過激派なほうなんだよな。

昼はもやしてんこ盛りの喜多方ラーメン(丁寧な暮らし)。


15時頃フォルメン線描。台風の目を思わせる大気の流れのような模様を何度も描く。
20時頃大学から新年度の郵送物が自宅に届く。
チョコザップで30分ワークアウトしてスーパー寄ってから帰宅して入浴。